1・雁字搦め


 『それ』が起こるまで、俺は安穏と過ごしていた。
 気付くのが遅かった。そう例えるしかあるまい。

 今日一日の俺の運勢は最悪だ。
 まず、朝起きたときにみずがめ座が最下位だった。
 女性のアナウンサーが「みずがめ座のあなたは信頼していた人に裏切られるかも」と言っていた。
 すごいな。大当たりだ。
 こんなことなら、ラッキーアイテムの『ハート柄のマグカップ』でも買うんだった。
 朝の七時という時間に雑貨屋が開いていたらの話だが。

「ねぇ……見えてる?」
 そうそいつは笑う。
 あくまでも白い歯で。あくまでも黒い目で。
「うーん……反応がないなぁ」
 そうそいつは眉をひそめる。
 しかし、そのとろんとした瞳は、未だ残虐な光を秘めたままで……。
「ぼーっとしてちゃつまらないよ」
 きらり、と何かが光った気がした。
 そいつの目の奥で、いや、俺の目の前で。
 ナイフというには大振りな、刃物。それが目の前にかざされる。
(……何度目だ)
 既に俺の顔に驚きの表情も出ない。
 先ほどからこいつは、刃物をかざしてはひっこめる、という行為をくり返している。
「あー、既にこれにも反応ないの? つまらないなー」
 笑顔でその刃物を喉元に押し付けてくる。ああ、新展開。
「えー、これでもだめ? 本当にさくっとやっちゃうよー」
 さくっとやるならさくっとやってくれ。流石に半日もこの体勢はきつい。
 そう思い目を閉じる。

 くだらないミスだと思う。
 いつもより少し早く起きたからといって、少し早く出たのが間違いだった。
 こいつの下らない戯言につきあったのが間違いだった。

「えー。なにそれ肯定? こうさ、最初みたいに怯えて。ね? つまらないの嫌いだよ?」
 ぴたぴたと首筋にナイフを当てられる。
 怯えて逃げ惑おうにも体中が縄で拘束されて、表情ぐらいしか動かせない。
 あいつは何を思ったのか、堰を切ったように、高い声できゃはきゃはと笑う。耳障りだ。
「きみ、おもしろくないなぁ……。ねー、どーする?」
 語尾に音符でもつくような口調だが、確実にナイフが深くなっていく。
 すーっと手前にひかれ、縄の下、肩のあたりに一筋の赤い線が浮かぶ。
「…………っ」
 冷たい、と思った。熱いと思えた頃に痛みが誘発される。
「痛い、かなぁ?」
「…………」
 耐えられる耐えられる耐えられる。
 こいつに屈したら負けだ。よくて解放。悪くて死。
 こいつが俺に飽きたら、確実に殺される。
「ねー、かまってよぉ」
 ねぇ、ねぇ、ねぇ。と傷口に刃物の握る側を押し付けられる。こいつ、自分が刃の部分持っていることに気づいてるのか?!
「かまってってばぁ……」
 ついに傷口に向かって叩き落してきた。
「っか……」
「あ、すっごいいい顔ー。生きてるって感じだね」
 どうせならもっと別のことで生を実感したいよ。
「じゃあ、次はー」
 とあいつは周りを見回す。
 やつの視線の先に、綺麗な一本の和蝋燭があった。
「これいいかもー」
 部屋の中をごそごそと漁り、一つのマッチ箱を見つける。
 和蝋燭にささやかな灯をともし、やつは俺に近づいてくる。
 握られた和蝋燭が血と灯りとで赤く染まる。
「ねーねー。燃やされるのとぉ、蝋たらされるのどっちがいい?」
「……どっちもごめんこうむる」
 久々に出した声は、半ば喉にはりついてかすれていた。
 だが、俺が返答したことにあいつは機嫌良くしたのか、蝋燭をもったままくるくると回り始めた。
「わー、やっと返事したねぇ。最初はさぁ、帰せだの話せだの言ってまともに話聞いてくれなかったし。黙ったら黙ったで、反応ないし。つまんなかったんだよー」
 俺の前にとまると、しゃがんでふわりと笑う。
 たんぽぽが咲いたように。
「よっし、じゃあ用件言わなきゃねー」
 てくてくとまっすぐ俺から離れるように歩く。
「よ、用件?」
「うん」
 くるりと振りかえってにっこり。
 まずい、こいつの笑顔は好きかもしれん。いや、そういう問題じゃない。
「あのねー。ねーちゃんがねー。好物きいてこいって」
「は?」
 とてて、と近づいてきて、傷口を靴で踏み始める。
「いで、いででででで!!」
「だーかーらー。好物。今度誕生日なんでしょー? ねーちゃんがプレゼントしたいらしいんだー」
 …………。まさか、それだけの為に拉致られたっていうのか?
 むしろ、俺の誕生日はかなり先なんだが……。
「あ、あのさ。用件って……それだけ?」
「うん!」
 あっさりと肯定される。
 てか、それなら普通に訊けよ!!!
 えーっと、欲しいもの欲しいもの。
「あー……じゃあ、ハート柄のマグカップで」
 げ、なんでラッキーアイテムあげてるんだよ。むしろ、必要だったの今日だろ?
「ハート柄のマグカップ、ね。うん、わかったー」
 こいつは、けたけた笑いながら、縄を解いていく。
 全部解放されたとき、俺は異様なやるせなさを感じた。







<< お題目次へ >>