月に願いを
ボクはね、シアン。
キミに会うために海の底から浮かんできたんだ。
彼に初めて会ったとき、そう彼は言った。
質の悪い冗談だと思った。田舎の人間だと思って、ナメているのだろうと。
「ほだったら、アンタは土左衛門かなんかやー?」
率直な想いを口にしただけだった。
彼は何も言わず微笑んだだけだった。
彼はサカナと名乗った。
流暢な日本語をしゃべるが、日本人ではないようだった。その証拠に、海の底を思わせるダークブルーの髪と瞳は天然ものだった。
いつもフラフラしていて、捕え所のなさは、天下一品だった。
どこから来たのか気になって、訊いてみたことがある。
「海の底から、キミに会いにきた」
そう答えられて以来、私は問うのをやめた。
問うたところで無駄だろう。彼はのらりくらりとかわすのが上手かった。
私とサカナは、無駄に時間を作っては、馬鹿な話ばかりしていた。思えば、あの時期が一番楽しかった気がする。
私はただのOLで、サカナは画家だった。
画家といっても個展を開けるようなものではなく、その日の生活費を稼ぐためのものだった。
彼の青の使い方は巧みで、時に物悲しく、時に神秘の世界に私たちを連れていった。
「綺麗だわ〜」
そう素直に呟いた時に見せた、彼の照れたような表情が忘れられない。
そういえば、彼との出会いはまだ書いてなかった。
彼との出会いは、1ヶ月前。九月の終わり頃だった。中秋の名月とは、このことだろうと言えるような月がポッカリと浮かんで、
キラキラと輝いていた。
「………昨日の満月綺麗だったなー」
「確かに」
ポツリと呟いた私の独り言に、男の声が相槌をうった。
くるりと即座に振り返ると、ずぶぬれの男が立っていた。
「ぎゃー変質者〜!!!」
「ちがいます!」
逃げ出そうとする私に、男はキパッと言い放った。
彼は、私を落ち着かせるべく、必死で話した。自分は絵描きであること、サカナという名前なこと、そして――
「ボクはね、シアン。
キミに会うために海の底から浮かんできたんだ」
そう告げた。
嘘だろう。というか、だから濡れてたとでも言いたいのだろうか? しかも何故、私の名前を知っているのだろう?
だが、彼の雰囲気からは怪しいところは見受けられなかった。
私も人がいいものだ。ずぶ濡れで可哀想だと、家に連れてきてシャワーまで使わせてやった。
着替えがない、とまで言っていたので、即行、洗濯して乾燥機をまわした。
「ありがとう」
そう彼は告げると、そうそうに布団に入ってしまった。
それから奇妙な同居生活が始まった。
きちんと毎日お金をいれてくれるのはいいが、よく考えたら他人だった。でも私の中でサカナは、父であり、兄であり、弟だった。
サカナはいたって普通だったが、毎日月を見てはため息をついていた。
「そんなため息ばっかついてどうしたやー?」
「いや……ちょっとね」
月を見上げてため息つくなんて、かぐや姫じゃないんだから。
だが、サカナがため息をつく量は、日に日に増えていった。
「だんだん日が短くなってくるね」
彼は悲しげに告げた。彼と出会ってそろそろ1ヶ月。もう上弦の月が見えている。
まだ十月とはいえ風も冷たくなり、秋の終わり、はたまた冬の到来を告げているみたいだった。
ハラハラと紅葉も舞う。
「あ、紅葉」
「あ、ほだね〜」
てのひらにそっと乗った紅葉は、赤々として可愛らしかった。
「この紅葉が見られるのもあとちょっとかぁ……」
いくらなんでも、まだ葉は色づき始めたばかりだ。
彼が呟いた言葉に、気が早いよ、と返しといた。
モデルになって欲しい。
明日はもう満月だという頃、サカナは珍しく私に願いごとを言った。
気恥ずかしかったが、サカナがどうしてもというので、仕方なくモデルをした。
なんでもないポーズをしながら何度も、他の人を描くべきだと言った。
彼は聞きいれなかった。
「できたよ」
「うわー別人だげ、これは」
見せて貰った絵に写ってた私は、まるで別人どころか、聖母のような微笑みを浮かべていた。
「照れくさいわー。でも、ありがとう」
「どういたしまして」
この絵は今でも額にいれて飾ってある。
次の日、満月で日曜日。
どこかへ遊びにいこうかと言ったところ、海がいいと言われた。
車を飛ばし、海に行く。着くと、私たちを潮風が迎えた。
特にやることもなく、ぼーっと海を眺める。
波の音、鳥の声。そして――ざわめく葉。
平穏そのものだった。
私もサカナも一言も発しなかったが、満ち足りていた。
夜も近づいて、そろそろ帰ろうかと思っていた頃――
突然、サカナは服のまま泳ぎはじめた。
冷たい海。風邪でも引いたら困る。
「何しとるや!」
だが、叫んでもサカナはやめなかった。
すいすいと、なんとか声が届くくらい遠くまで泳ぎ、そして言った。
そろそろお別れだ、と。
頭の中に彼が言った言葉が今でも回る。
彼曰く、自分は魚なのだ、と。
海で君を見かけて、君を好きになったのだ、と。
人間になりたいと、冗談半分で月に願ったら叶ったのだ、と。
そして、だから、魚からサカナになってすぐ、シアンに会いにきたんだよ、と付け足した。
冗談だと思ってたら、段々とサカナが霞んで見えてきた。
まさか――と思うが、人間の形から異形へ、そして――魚の姿へとなってしまった。
「な、おい! サカナ! 何勝手に変身しとるや!」
魚に向かってわめく。
「手品? ドッキリ?
なんでもいいで、早く姿を現しーやー! サカナ〜〜!」
叫んだ言葉と魚は、満月の海に消えていった。
その後サカナが姿を現すことはなく、3年が過ぎた。
職場の華だの、うちの部のアイドルだの言われてた私は、ついにクリスマスケーキとまで言われるようになった。
「また、この季節が来ただね……」
ひっそりと涙を流す。あくまでひっそりと。
あんな話、誰にしたって信じないし、何より自分自身まだ信じてないのだ。
「アンタ、私に会うために海の底から浮かんできたんじゃないやぁ?」
「―――そうだよ。だから戻ってきたんじゃないか」
聞き覚えのある声。待ち望んでいた声。
後ろを振り返ったら、やっぱりヤツはずぶぬれで。でも、そこに確かに立っていた。
「さ……かな」
「ただいま、シアン」
「おかえり。ったく、アンタはもう……」
サカナが魚だろうとなんだろうと私には構わない。
私の目の前から消えないでいてくれるのなら。
だから月よ、お願いです。
何時までもサカナに魔法をかけてて下さい。
完
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